存在論的論証がわからない

昨日夕方、入稿作業をして印刷所に無事データを届けることができた。
ほっと安心した。
そのためなのか今朝は体がだるいので朝の勉強は休み
ゆっくりと起き上がることにする。

ゆっくり休んだはずなのに
疲れが取れておらず
仕方ないので今日は外出を控えて家で勉強しようと考えた。

朝からずーっと哲学をやってるわけだが
もう1週間前だ。

これは本当に大丈夫なのか…。

哲学は自分が納得しないといつまでたっても勉強が終わらない。
言っていることはわかるのだが
それがどうしても納得できないとき、
私は「わからない(納得できない)」と思ってしまうし
言ってしまう。

今回の納得できないことは
神の存在論証(神様が本当にいるのか俺が証明してやる問題)の
存在論的論証という箇所だ。
存在論的論証の証明方法は以下だ。

1. 宇宙一強いもの、すなわち「神は存在しない」と仮定する。

2. 神という言葉を聞いて、理解する人の想像上に神は存在する。
3. 「神」という言葉を聞いて理解できるやつは「神が現実に存在する」と考えることはできる。

4. ところで現実に存在するものは、想像上のものよりも存在はでかいに決まってる。
5. 我々は神よりもでかいものを考えることができる。

6.3と5が矛盾するから1が誤り、つまり「神は存在する」が正しい。

これそもそも論証になってなくね…って思うのは私だけなんだろうか。
私の理解がまだダメなのはわかっているのだが、これは、証明になっているのか…?

目的論的論証(この世界は設計者としての神がいなかったらこんな風になってないと思います証明)や、

宇宙論的論証(この世界があるってことは、原因の原因の原因って辿ってって最初の第一原因イコール神がいるんだと思います証明)

とはわけが違う。

私が数学に慣れ親しんでいないからなのだろうか。
背理法(帰謬法)はコンテキストを無視した作りになっているような気がするのは私だけなんだろうか…。

……。
全然納得いかない。
私はこれをもしアンセルムスに言われたら
「は?」
と言ってしまいそうだ。

この存在論的論証を皆が信じていたとどこかで見たのだが
それは本当だったのだろうか。
私みたいに「お前は何を言っているんだ」とツッコミを入れたのは
ほんとにガウニロだけだったんだろうか…。

この気持ちは「難しい」というのではなく
「意味がわからない」という感覚だ。
なんで想像上のものと現実世界のものを
同列に扱っているんだろう…。

これは私がキリスト教徒でないからわからない感覚なんだろうか。

幸いにもこれはカント先生がぶちのめしてくれてるので
後世には正しくない論証として言われているのであるが
それにしても18世紀までほんとにこんな理屈が通るものなんだろうか…。
もし私が信者で
教会でこれを教わったら
おそらくこれを教えてくれた人に
わからないと訴えてしまっていたと思う…。

まあいいやそのうちわかるだろ。

今日は妹と電話して
ピアノの発表会の打ち合わせをした。

あとはもうずっと哲学。
早く楽になれたら良いのだけれども、あと1週間、頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



カテゴリー:ALISA

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